【第14話】障害児療育への参加 メリットと「誰のための成長?」と芽生えた疑問
娘が3歳を過ぎた頃には
それまでの
色々な局面により
心境も随分変わっていました
障害があると告げられた衝撃から
絶望や葛藤を経て
自分を縛っていた
常識という枠の破壊
(ここ大事でした)
そんな道を辿っていて
だんだんと
普通とか、こうであるべきとかの
囚われからの解放へ
向かっていたのかと思います
まだまだ、気持ちの
アップダウンは激しかったけれど・・。
その頃
ケースワーカーさんの紹介で
娘の療育、機能訓練と
同じ年頃の障害児の
交流の場への参加を促され
グループの療育の
クラスに入りました
私の住む湘南地域から
同じグループに6名ほどが
集まり、
月に2回、約1年
時間を共有していく事になりました
PTやOTの機能訓練を受け
グループでの遊びなど
集団生活に馴染むことも
目的としています
病院通いで
色々な障害のある子を見てきましたが
同じ年頃の仲間だけが集まる場は
初めて
私も娘も同期的な
仲間ができる場は
楽しみでもありましたし
娘にもいい刺激になったかと思います
多分・・。
でも
ちょっとづつ、
違和感も感じていったのです
療育開始にあたっては
娘の状態の細かなヒアリングがあり
おもちゃで遊ばない娘に
感触を覚えさせる訓練とか
バランスポールを使って
身体機能を改善させることや
咀嚼ができないので
口腔ケアから
咀嚼を促すための食事指導
他には
知育玩具を使っての遊び
などのメニューが組まれました
娘は
周りの職員の方との触れ合いや
声かけには、
楽しそうな表情を見せるのだけど
その機能訓練自体は
まるでやる気がなく。。。
作業療法士の方達の
盛り上げに楽しんでる?
そんな感じです
毎回、そんな娘を見ているうちに
成長とか機能の向上とかというけれど
いったい基準はなんだろう・・・。
誰のためのものなんだろう・・。って
そんな思いがよぎる様になりました
もちろん
療育によって
何かが開花していくことや
何かと繋がって、
その子の世界が
広がっていくきっかけになるのは
素晴らしいと思うし
それが
その子にとっての喜びに
繋がる事であればいい事です
でも、私は
(娘の特性もあると思いますが)
この子が
何を望んでいるか
どうしたいか
どうあるべきか、なんて
本当は誰にも完全にわからないのじゃないかな
と、なんとなく思っちゃったのです
この子が
咀嚼ができないことは
何を基準にいいとか悪いとか
できるとかできないなのだろうって。
例えば
咀嚼ができないことで
噛んで
食べる楽しみを
知って欲しいとか
体の機能のためとか言ったって
それが、娘が魂レベル?DNAレベル?
で望んでいなければ
別にかわいそうではないのではないかな??
生まれつき
手のない子に
手がある方が幸せであるにきまってる。
だなんてどうしていえるだろう
元々持って生まれたもので
完全なんじゃないのかな。。
みたいなことを、色々と
思い始めたのですね
将来自立できない??
それだと、生きるのが大変?
でも、介助がなければ
生きていけないのであれば
あるいは短命であっても
それも、娘の運命であり
娘の魂の望みであり
それが娘として在る姿。
それだと、親が大変?
かもしれないけど
それも運命。
であれば、どう立ち回るか
を考えて選択していけばいいだけじゃないかな?
なんて
療育センターからの
帰りは、こんな自問自答を
ずっと、何度も繰り返すようになりました
可能性を伸ばすとか
機能の発達
その子の出来ることを
伸ばす
それはわかる。
わかるのだけど
それって、
母である私も含め
健常者からの視点で到達点を決めて
こうなることが
この子にとって喜びに決まってる
となっているのだとしたら
それはどうなんだろう・・・??
向き合うものの観念とか
思い込みや
理解の範疇に娘を寄せることは
本人の為というより
周りの者の
想念を満足させることになってないかな・・・??
それは
娘の喜びと
本当に合致してるのだろうか??
彼女が
どうしたいのかや
何を望んでいるのかが
健常者の世界から見て
わかる形で
表れないからって
それを評価をするのは違うのではないかな??
娘の在りようを
健常者が
理解できる(したい)
様に向けるのは
娘をコントロールしたり
本質を奪ったりしないのだろうか・・・??
などなど・・。
何だかごちゃごちゃ湧いてきて
療育訓練に通って
半年もすぎる頃には
そんな思いが心の中でループしてしまったのです
====================
でも、このように疑問に思ったことは
”本質で生きる”という道を辿る出発点として
実に確かなことだったな。と・・・。
ここで、疑問に思った自分は
間違えてなかったと今振り返り思えています
(続く)