【第15話】障害児療育「誰のための成長?」と芽生えた疑問〜娘が娘であることの気づき始め

療育に通うようになって
娘の機能訓練などを受けているうちに
次々と疑問が湧いてきたことを前回綴っていますが



その続きです

療育で
”成長”や身体の機能の”改善”を目指して
いるのだけど
それは、いったい基準はなんだろう?

なぜ、基準に寄せたり
はめたりしないといけないのだろう。。。

と、そんな疑問と向き合っていました

そして
だんだんと
娘が娘として持って生まれたもので
いいのではないかという思いに変わっていく時期を
過ごしていたのです

娘が
今までやらなかったことを
やるようになったのを見たら
もちろん感動します

嬉しくて嬉しくて
きっと号泣するでしょう。

だけど

その感動が

私の期待を
満たした事による感動ではなく

娘の魂からの望み、
その進化の
現れということへの
感動でありたいな、と
きっとこの頃の私は
潜在的に感じ始めていたのかな。
と思います

そこをすり替えたり
混同させてはダメなのだと・・・。

娘の中では
常に何かが起こっているのだと思うし

親として
それが理解できなくても

理解できないことも含めて

その娘の在りようを尊重し
わからないまま
そのままを受け容れていくことで
いいのじゃないかな

私の理解に寄せたり
はめたりしていくことは
娘の真実を奪う

って

だんだんと
そんな思いが確信になっていきました。

この訓練に通いながら

私は親として
今娘に何をするべきか
どう在るべきか
といういことを
考えていて

そして
思ったのは

娘が生きたいであろう
ことに対しての必要なケアを
しながら

私が私として楽しむ

そこで感じることを
たくさん娘に伝えていこう

ということでした

例えば

自分の足で立ったら
こんな世界が見えるよ

ものを噛んで食べられたら
ご飯が美味しくなるんだよ

体をもっと自由に動かしたら
こんなに楽しくダンスができるよ

そんな

私が心から、楽しいと思えたり
嬉しいと思えることは伝えて

一緒にやってみる?

という提案は
たくさん示し、
体験させてみようと思いました

そして

それを試させたところで

娘の魂が
どう受け取り、どう選択するかは娘の自由


それを受けた娘が
私のわからない形で
楽しんでいるかもしれないし

そうじゃないかもしれない


娘が受け取りたいように
受け取り
好きなように表現すればいいのではないかな
と思ったのです

要するに
私は私を喜んで生き
娘は娘を喜んで生き、そこを受け容れあい
融合していくのがいいのではないか。
そんなことに気づき始めていたようです

今からして思うと
やはり、私は波動とか、目に見えないものの
伝播を信じたのですね。

そういう選択を自然としていたように思います

目に見えるものでの評価でなくて
いいのではないかな。
と、思い始めていたこの頃に

在るように在る

あるがままでいい

そんなことが芽生え始め

知識で娘を判断するのではなく
情動で娘のあるがままを受容れることを
きっとスタートさせていたみたい。。

もちろん、そんな難しい表現は
その頃は全然わからなかったけれど。

自然に、自分の心の声と対話して
そういう方向に向かっていました。

ここで起きた疑問は
あるがままで生きることの道のはじめに
立ったことになっていました。


そこをきっと丁寧に、丁寧に向き合っていた若き私。

そんな自分
少し誇らしく思えたりします(笑)

そうそう!

少し前に

「理解できないものに真実がある」
という動画を見て

この療育センターの訓練で
抱いた違和感と
その話がつながると感じたことがありました。

それについて

以前、ブログに書いています。

キーワードは
「紫式部に飛行機を見せたら、天狗と答える」

ということ。。

さて、どういうことでしょう

まさに今日書いた事に
つながります

(その記事は→こちら

そうだ!

あと

最近流れてきたTwitterで

こんなツイートを見かけて

これもまた
この頃に感じた違和感のことを思いだしていました

「親が子にできる最大のことは
その人生を邪魔しないということだ

我が子から、喜びも悲しみも
苦しみも、楽しみも
成功も、失敗も奪わないことだ」

本当にその通り。
そして加えるなら、我が子の
あるべき姿、その真実を
親がコントロールして奪うことの
ないようにしたいと思いました。

(続く)