インクルーシブ教育について最近思う事


どんな人がいても当たり前の社会になったらいいな。
という願いのもと、
それは幼少期からの育ち合いが大切と思い


社会に敷かれたバリアを自ら叩き

どんどん娘を
共生の場に交わらせてきた経緯を綴っていますが

娘の幼少期当初は
まだあまり”インクルーシブ教育”

なんていう言葉が周知されていない時代でした

だけど少しずつ
共生という言葉が出てきたり
そういう活動をされている団体が増えてきたり
そんな動きが出始めていた頃でした

私は
障害のある娘と向き合っていく中で

人の本質・・・。
本質のまま生きている同士が関わり合う。
ということがいかに大切かと思うようになり、


”普通”とか”世の常識”という価値基準に
個性を沿わせ、自分を差し出す教育は


本来持って生まれた個々の色を失くし

それがやがて苦しみに繋がるのだと思い始めました。

なので、


誰もが元々持って生まれた色、本質を
そのまま発揮し合って交わり、
育ち合う必要があるのだと強く感じて

今で言う
インクルーシブ教育の場に一人で挑んで行ったのです

その経緯、
その都度どんなことを感じ
何を見てきたかについては
今後もここでストーリーとして書いて行きますが
(現在幼児園時代まで書いています)

X(Twitter)などでは今も時より
インクルーシブ教育についての賛否が繰り広げられていて、
時に対立になっているのを散見します


障害とか健常とか関係なく

交わることへの寛容さや、柔軟さの無さは
娘の幼少期から何十年たった今も、
あまり変わないのが現状のように感じ、

それどころか
以前より、線引が多岐に渡り
より、分類化、ラベリングが進み
枠が増えた気さえしています

そこで、改めてインクルーシブ教育について
いつか、X(Twitter)に投稿しようとしたら
とても長いスレッドになってしまって(笑)
そのまま下書きに保存していたので
それをここで
お伝えしたいと思います

Group of people holding hand together in the park

インクルーシブ教育というと
綺麗事言うなとか、

支援が必要で交われない子の
こともわかってほしい。と

障害児の親が反応し、
熱く反論されたことは何度もある

反面、
いわゆる健常者にこういうことを話すと
全く知らず無関心という印象も受ける

私自身は支援学校を否定はしていないし
娘も高校からお世話になって
先生方や

その環境の素晴らしさには感謝してる

特別支援の環境が必要な子がいると言うのも重々承知

でも、幼い頃から、健常/障害と一絡げで分けて
互いに見えない別世界にすることが、

いいこととは思わない

そうしておいて、大人になってから
いきなり

違いを認めようとか言われたって難しいと思う

だって肌で触れ合うことなく
知らない世界のまま育つんだから・・・。

凶悪な事件の犯人

”意思疎通ができない人は
生きてる意味がない”

なんて思想を抱いてしまうのだって
命に線引して分け、優劣を生ませた影響
あるんじゃないかと思う

我が娘は希少染色体異常で全介助
時々、奇声を発することはあるけれど
工夫をすれば、

共生の場にいやすいタイプの子だった。

だから私は、娘を守りながら
自ら社会的な壁に体当たりして
交わることを選んできた

共生の場が
娘が娘としてより生きると思ったので・・・。

娘と共にその空間にいたことで

後に、色々な障害のある子に興味を持ち
福祉関係の仕事についたと言う同級生

または、心自由に
自分の好きな道に進んだと言う同級生からは
「子供の頃、

さきちゃんが当たり前にしれっと
いてくれて、自分も自分でいいんだと思えたんだと
思う」

と嬉しい言葉をいただいたこともある

幼い頃から
色々な命があると言うことを肌で感じ、

育ち合うのはやっぱりとても大切だと思った

その子その子に合う場を選べばいいと思う

でも、それは社会的なシステムの壁や風潮に
誘導されるのではなく、


また、そのせいにするのでもなく

親が愛と覚悟を持って
その子がその子であることが活きる場を
選び取っていくものだと思う