【第27話】就学猶予へ。就学に踏み切らなかった理由。大切にした思い
(前回までのお話は→こちら)
もめにもめた私の離婚だけど
娘の障害から目を背ける夫と
その実家とは
ようやく決着がつき
晴れて私はシングルマザーとなりました。
妻という鎧がとれて
ただの私を実感し
心は晴れやかなリスタートでしたが、
なにせ、重度障害児を抱えてのこと、
次々と壁が立ちはだかります
この再出発の頃は
とてもとても豊かな気持ちになった
ボーダーレスの幼児園生活も
終わりを迎えていました
みんな違って当たり前が繰り広げられていた
子供たちの世界。
その伸びやかさを見守る先生方や、
保護者のみなさま
多様なものが
当たり前に混ざり合って育ち合って・・・。
ということを
感慨深く振り返る時期を迎えていましたが、
一方で、娘の就学の問題に
直面していました。
就学というのは
どんなに重い障害があろと
一応、一律に就学通知書がくるのです
娘にも、
「あなたの学区はこの学区で、
あなたは、来春からここの学校に通うことになります」
という通知が当然のごとく来ました
そして
その後、就学前検診があって
そこで奮いにかけられるのです。
娘も通知が来た学校ではなく
暗黙の了解の空気の中、
養護学校(当時)への入学を促されます
この場合
「あなたは地域の学校へは入れません」
と、教育委員会側からは言えないのですね
建前上、人権云々で
学区の学校への入学を拒否することは出来なくて、
あくまでも保護者の選択によるもの
というように誘導されます
あなたのお子さんがここにいては
困る、というのを
お子さんの為ですよ。
という偽善も含んだ提案で分けられるのです。
特別な支援が必要な子には
その子にあった教育が必要
みんなと同じ行動ができない子にとっては
普通級はとても厳しい環境になる
支援が必要な子を守りながら
その子に手厚く指導ができる
などなど
それはそうだし
そういう環境が必要な子がいるのも承知です。
ですが
これまで、娘と過ごして来て
なぜ、人を分類分けをするのか
なぜ、別世界に分離するのかという不自然さに
度々違和感を感じ、
そんな壁を一つずつ叩いてきた私には
就学にあたっての分離教育に
またしても不自然な感覚しかなかったのです。
そう、
娘の受診で、こども医療センターに初めて行ったとき
初めて目の当たりにした
多種多様な姿形の子供たち
その時、
その知らない世界に私はとても怖くなり、
愕然としたのだけど
その怖さは
私自身が
分けられた枠の中にいて
いかに、様々な命に無知だったのか
いかに
社会の常識や、正しさなどどいう
刷り込まれた
観念に押し込められていたのか
自分が当たり前だと思っていた世界は
本当はすべて仮初だったのではないか
そんなことに気づいていったからなのです。
知らない世界を目前にした時の怖さ・・・。
そこに気づきはじめてから
段々と
子供の頃から
当たり前にいる、色々な命に出会わず、
優生思想に洗脳されていくことの不自然さは、
本来の自分を失うことに繋がり
生命としての生きる力が
脆弱になるのではないかと
感じるようになっていきました。
そして、就学にあたっても
やっぱり
どうしようもなく違和感を感じた訳です。
まして
学区というのは
地図上に線を引いて
分けてるのであれば
それは、いわば社会の縮図なはず
だとしたら、元々そこには
色々な命、色々な人がいて当たり前なはずなのに
なぜ、そこから消えなくては
いけないのだろう
とそんな疑問も
湧いてきて、
そのまま、そんな誘導に乗ってはいけないのではないか
と、なんというか魂が納得しない
感じがしたのでした。
表層を整えるために
個々の本質を蔑ろにしてはいけないと
思ったのです
なので
何度も何度も教育委員会からは
呼び出しをされ、
何度も何度もこのような話をしては
話が抽象的すぎると言われ
半ば呆れられて全く噛み合わず・・・
私は相当めんどくさい親だったようですが
そんな違和感を抱えたまま
分離された先への就学を選ぶことは、
娘にとっても、私にとっても
”生きる”という上で
真実ではない気がしたので、
就学猶予という制度を使い、
就学を一年延ばすことを選びました。
そうだ!ここで
また、あらためて思いました
何度も同じことを
書いていますが
今一度・・・。
私の発信のタイトル
活動の理念
大切にしている言葉は
『しんめんもく』なのです
『柳は緑 花は紅 真面目』
「やなぎはみどり はなはくれない しんめんもく」
柳は柳の緑として在り、 紅い花は花として紅く咲き誇る。
それぞれ持って生まれたものが
それぞれとして ここに在り
それぞれを生かし合い融合していく自然の営み。
そうして織りなす景色の美しさと欣び、強さ
それぞれの本来の姿に真価があり、
真価を発揮しあって命が輝いていく。
それが真の面目(めんもく)というもの・・・。
娘の就学の時も、
私はきっと
このことを貫きたかったのだろうと思います
学び、教育の場が
その真価を失くしてはいけないのではないかな?と・・・
「ここにいる」ということから
分離することの不自然は、色々いびつな社会や
情緒の形成に弊害があるとを、
私は薄々感じていたみたいです
(続く)