芦田愛菜さんの「信じる」から。障害児と向き合ってきての共通点

昨年、映画「星の子」の完成報告イベントで、
芦田愛菜さんが「信じる」ということについての
問いに答えた言葉にとても感銘を受けました。

それは、長く障害児と関わっての気づきと
共通するから。

それにしても。
障害児を育てて、何年かかけて、
しかも、私がこのような境地に至ったのは
人生30年をとっくに過ぎた頃だったのに、
若干16歳の芦田愛菜さんがサラリと言ってしまう。

本当に素晴らしい女優さんだな。と思いました。

そのコメント全文は次のとおり。

このお話全体を通して
 ”その人のことを信じようと思います” 
っていう言葉って
結構使うと思うんですけど、
それってどういう意味なんだろうっていうのを
考えた時に

その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とするその人の人物像 みたいなものに期待してしまっている
ことなのかなって感じて、
だからこそ人は裏切られたとか 期待していたのにとか言うけれど、 別にそれはその人が裏切ったとかそういうわけではなくて、
その人の見えなかった部分が見えただけであって、
その見えなかった部分が見えた時に、
あっ!それもその人なんだ
と受け止められる 揺るがない自分がいるというのが、信じられることなのかなって 思ったんですけど。
でも、その揺るがない自分の軸を持つのはすごく難しいじゃないですか。
なんかだからこそ、人は 「信じる」って口に出して、不安な自分がいるからこそ、例えば成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりに、すがりたいんじゃないかな~って思いました。

本当そうなんですよね。

私の障害児育児を振り返ってみても

なせ。”障害”が辛かったのか、
受け容れられなかったのか

と思った時、

それは、娘が生まれる時は
自分が思い描いていた、
理想の子供像を期待していたのだけど
娘はそれとは、大きくかけ離れていたし、
理解の範疇を超えていた。


それが、とても受け容れきれず
恨めしく思えて辛く、苦しみを生んでいたんだな。
と段々と気付いていったのです。

でもね。

娘は、私を裏切ったつもりなんかなくて
ただ、娘は娘だっただけ。

別に、私の思い描いていた子供像にそぐわなかっただけであって
それが、娘だっただけなのです。

こんなふうに生きる人間もいるんだな。

と知らなかった世界が見えて、それを、
そういう、命もありなんだ。
と受け止められるようになるには

私自身が、真の自分に気づき、
目覚めないとできないことでした。

その過程がかなり痛みを伴うのだけど・・・。

娘の個性が、私を縛っていた”こうでなくては”という枠を
解いてくれて、真の私を解放してくれたおかげで、
私は自分の軸に気づきました。

そういう揺るがない自分に気付いたら、
娘のこともそれもありなんだ。
と受け容れられるようになって、


自分のことも、娘のこともあるがままを
信じられるようになったのだと思います。

人のあるがままさが、
向き合う人のあるがままさを解放していく。

そこに行き交う真のものに愛があるのではないかな。

その真の自分、
揺るがない自分軸に目覚めた時に
自分の中が調和的になっていって愛で溢れる。

それが、違うものを受け容れる寛容さになり、
周囲との調和に繋がっていくのではないかな。

と思います。

障害児育児は、
実はそんな素晴らしい気づきの連続です。