命であることだけで十分愛おしい。
命の始まりと終わり、源について
8月は夫の命日があり
原爆の日があり
お盆があって
終戦記念日。
命や魂についてよく考える月
命そのものに感謝が深くなる月です
なので。
少し深い話。
命の始まり
終わり。源。
命との関わりについて
普段感じていることを
書こうと思います。
いつもの日常を過ごし
生きてるものと
一緒にいると
それが当たり前すぎて
命、その肉体が有限であるという
ことなんて忘れてしまいがちです。
でも、当然ながらどの命にも
限りがあります。
その命の限りを目の当たりにして
ようやく、
生きていること、
生かされていることや、
他の命と出会い
共にいることの全てが
実は奇跡的なことなのだと
実感することになります。
そして、
生きているものと共にいる時間は
互いの創造になっていることを
思い知ることになり
感謝が溢れてきます
だから
普段外側のことに囚われて
つい意識もしなくなっちゃうけれど
まず、自分の命のことも
目の前にいる命のことも
ただただシンプルに
命として生きているのだということに
立ち返って尊ぶ。
そこに
豊かさも優しさも、
全部あるのだと感じています。
一日一日
一瞬一瞬
それを感じると
十分足るを知れる。
もう、命であること自体が
愛おしいと思えます。
それなのに、
普段、
生きていると
外側の常識や体裁と比較したり
自分の物差しを基準に
相手を見たりして
それにそぐわないことで、
その命そのものまでもを
否定してしまったりします
生きていることは
当たり前ではないのに
だんだんと
自分にも他人にも命に対して
傲慢になって
命に条件をつけてしまっていたりして
けれどね
どんなに自分の思いと違っても
とにかく生きている命であって
どの命も神様によって創造されたもので
唯一無二の命。
誰もが
すでに完全で完璧な存在なのです。
そのことを感じながら
自分の命も
他者の命も命として
ありのままを受け容れる。
それが幸せの原点だと常に
心に留めておきたいと思います
で、
その命。
いったいどこからきて
どこに還るのでしょう?
夫が亡くなってこの4年の間
ずっとそれを探求してきました。
実は
夫が亡くなる日の朝
入院している病院から
もう数時間しかない。
との連絡を受けて
慌てて病院に向かう途中。
なぜか、ふと、娘を出産した日の
朝と同じ感覚になったのを感じたのです。
とても不思議な感覚。
こんな時なのに
あの日(娘が生まれる日)と
同じ感覚だなんて。。。
その感覚が忘れられず
ずっと、その答えを探っていました。
そして、気づいたのだけど
あ!そうか。
元々いたところに夫は還るのだな。と。
魂が体を持って命として
人生を始めるために
送り出されるところと
人生を終えて、
体を仕舞ってまた魂が
還るところが一致したのだな。
誰もの命の源を、私は
夫を見送る朝、感じていたんだ。
と私の体の中でストンと落ちたのです
その場所を空(くう)というのか
天国というのか
宇宙というのかは
それぞれなんだろうけど、
なんだかそれを感じた時
それは、私も元々いた所であり
還るところ。
そして、
それは、私の命の源でもあり
私の大元。真我。
心のふるさとなんだと思えたのです。
そう思うと
生きているところが違うけど
源はみんな一緒で
みんな繋がっているんだと思えて
とても至福に満ちた感覚になったのでした。
それは
今もずっと思っています。
故人とは
姿は見えないけれど
大きなところで一緒なんだな。と。
肉体で生きるのを終えて
魂は、天国に還っていったけれど
その後、こうして
違う形での
共に生きるが始まった事を
感じると、なんだか
とっても暖かく豊かな気持ちに
なるのです。
それが
とても心強くもあります。
私の内側が
その豊かさで満たされていくと
外側のことに翻弄されず
至福が保てるように
感じています。
そう、真の自分
本来の自分と繋がる、と言うことは
こう言うこと。
それは、愛そのものと
繋がることだと確信しています。
人が亡くなることは
悲しいのだけど
ひとつのある形が終わることが
新しい共に生きるの始まりに
なっていくことを感じられることは
幸せなことでもあるんじゃないかな
と思えるようになりました
少し深い話でした。
でも、この真の自分とか
真我とかって
要するに、自分の本質ということ。
誰と比べるものでもなく
周囲の相対に悩むことなく
その本質で生きるということ
それが究極の幸せなのです。
私の場合は
娘が障害者で
オリジナリティ豊かですが
今までも今も
娘から、本質で生きることを
教わっている気がします