【第22話】子供たちの寛容と創造性。大人はどこでなくすのだろう?

   

障害があってもなくても

共に生き、
育ち合う場を探して
やっと出会えた

聖恵幼児園。

園生活の始まり。

障害のある娘のことで、園から周囲への

特別な説明など、もちろんありません。


園長先生のその姿勢の根底にあるのは

個々が個々として

ただ在り、感じあい、共に育ち合う。

と言う信念。

その空間に身を置くと
それは
十二分に伝わりました。

始めのうちは、色々と娘に必要なケアや
勝手を教えて欲しい。

という園からのご要望にお応えして
私も園の中で多くの時間を過ごしていたのです。

子供たちがいる空間と
娘をそこに放つことに触れていると

観るもの、聴くもの、感じるもの

一瞬一瞬、感動しきり・・・・。

端的に言うと

子供達の間には障害も何も関係なく
生きたもの同士。

そのままとそのままである者同士が響き合う。

そういう自然が
ちゃんと成り立っている。

ということです。

そして

そんな素敵な空間にいるうちに

子供の世界で成り立っていることが
どうして、大人の世界では、
障壁だらけになってしまうの?

大人はいったい、どの段階で
この純粋性をなくすのだろう? 

と言うことも
ひしひしと感じていったのでした。

子供たちは、

見たことのない様子の娘へは
やっぱり始めは??がいっぱいです。

歩けないの?喋れないの?
スプーン持てないの?
変な声出すよ?
ハイハイでどっかいっちゃう!

などなど・・。

それを拾って、
先生の答えはいつも決まってこの一言。

「神様はね、色々なお人をお創りになるのですよ

と。ただそれだけです。

だって、本当にそれだけなのですよね。

そして

その先生の言葉を聴くと子供たちはそれぞれ
自分の中に納めるのか、ふーん。と言って
それ以上は追求しません

そんなやりとりも始めのうちだけで

しばらく経つともう
娘の「違い」も「そういうものだ」になっていました。

そう!

そんな園時間はこんな感じ。というエピソードをひとつ
紹介しますね

たくさんの思い出の中で
特に思い出深いシーン。みんなの様子がとっても
可愛くて大好きだった場面です。

園はキリスト教主体で

毎年クリスマスは恒例の「生誕劇」があって
子供達が劇を披露するとても大切な日。

秋になると子供たちと先生の間で
その役決めの「会議」が始まっていました。

人気のある役に、
みんなでうーん、でも誰ちゃんはどうだから、
誰ちゃんがいいよ!とか

じゃあジャンケンにする?とか


先生が物語と役のお話を
子供達に丁寧にしながら
みんなで夢中になっての相談が続きます。

そんな時、先生がさりげなーく

ねぇ、さきちゃんの役は何がいいかな?と促しました

(先生の娘への配慮はいつも自然でさりげなく
本当に絶妙なタイミング!)

すると年長さんたちから

うーん・・・。

さきちゃんに聞いても答えないから
みんなで考える?

せんせーい!さきちゃんの役は
みんなで決めていいの?

なんて会話が聞こえてきます。

そうだ!さきちゃんは、喋れないから
ウサギは?

えーでもウサギみたいに走れない

あ!見張り番はできる!!

だって、座ってるだけで
見張ってることになるよ!(?笑)

さきちゃん、宿屋さんは?

うん!さきちゃんは宿屋さんがいい!!

せんせーい!さきちゃんは宿屋さんがいい!!

こうして、娘に見合う役をみんなで意見を出し合って

娘は宿屋さんの役に決まりました。

ちゃんと宿屋さんの衣装も着たのですよ!
可愛かった^ ^

(実際の劇では、娘のセリフ(一言)を先生が代弁)

こうして

本当に何も特別じゃなく、自然にみんなで
分け合って、補い合っている感じ。

そこに娘もちゃんと当たり前に
一員になっていることに
本当に感動しっぱなしなのでした!

園での日常は、

こんな光景があったり
時には、みんなが何かに夢中になると
娘はその場に置き去りになったりもします。

でもそれでいいのです

それが、自然の在り方であり
それでも、
確かに同じ空間に娘がいる。ということで


それぜれの存在が響き合い、融合していたのですから・・・。

そんな

子供達から教わる”個々が自然にただ在る”
という共生の空間に触れながら

私の世界も、ものの見方も随分変化していきました。

子供の世界に成り立つ寛容さと
本来の生きた者同士の多様性

本物のクリエイティビティ。

大人になるにつれ、
どこでどうして失うのだろうか・・・。

と、次々と湧いてくるそんな疑問は
その後の人生のテーマになったように思います。

子供時代にある純粋性、寛容性、創造的であること・・・。

体裁を整えていくうちに、
あるいは
整えるよう誘導されているうちに


それらを失くしていき
命を排除していくことが大人になる
ということであるならば、とっても残念なこと。と

思い始めていたのもこの頃からです。

ある基準に沿うようにして、神聖さを失くし、
大人という形で生きるようになった人が子供を産み

そしてまた
基準や自分の思い込みに準じた子供という形を作る

形で生き、魂を失くしてき、
また次の世代の魂も搾取していく・・・。

そんなことが

永遠と繰り返されてきたのかも。。

みたいな事を

若い私なりに、感じ始めていたのですね。

そんな規範という枠に沿った生き方の中で

障害児と言う、

常識外れで、
想定にはない命の誕生が
絶望になってしまう構図についても、

だんだんとわかった気がしたのです

そこを考え始めると
少しやりきれない気持ちに苛まれたりしていた
若いママの私。

でも、園で子供達に沢山触れて、
娘も交わっている空間に身を置くと

すぐに豊かな気持ちに引き込まれたりもする・・・。

子供達の「生きた」チカラや
本当の命の融合は

いろいろ気づき始めて
憂鬱に傾きそうな私の気持ちを払拭してくれて、
整えてくれたりもする。

最高の空間だったのですね。

私と娘の時間には

こうして、素敵を重ねた土台がしっかりあるのだ!と
今、思い出しながら、また心が満ちています。




時に障害児育児の辛さに苦しみ、

でも、この園での光景に心震え。

そんな感情を行き来させながら

バランスをとっていた頃のことです

そして・・・。

そんな日々を重ねていた園生活も

間も無く1年が経とうとしていた年中さんの冬。

明日、娘の命が消える!と宣告される出来事がありました。

「生」への向き合い方、私の死生観を変えた
大きな大きな出来事の事
次回は綴ってみようと思います。

(続く)