【第24話】ただただ生きてる命。命であること自体が愛おしい
「命であること自体が愛おしい」
「人の命であることに普通も障害もない」
「この子がこの子であればいい」
これは、
娘の命がもう尽きそうだと告げられて
そのまま意識が戻らない数日の間に
私に宿った想い、
体得したことです
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娘が意識を失くしてから
3日目の夜が過ぎていました。
全身の状態は
最初の晩よりもずいぶん落ち着いているとのこと
脳もむくみが取れてきて
呼吸、酸素などの数値は良い方向に向かっていると。
青白かったお顔もいつもの寝顔のように
だんだんとピンクのほっぺが戻ってきていました。
そして次の日の午後
娘は、何事もなかったかのように
いつも起きるときと同じように
うっすらと目を開けたのです。
え??やだ!目開けた!!
私は涙声で叫びました。
さきちゃん!ママだよ!!わかる??
と喜び勇んで泣きながら声を掛け続けていたら
ぼーっとしたお顔のまま
娘が何かを目掛けて手を伸ばしました。
ママだよ!ここだよ!
続けて私は叫び
娘の差し出した手を繋ぐ準備は万端です
が。。
娘の手が目掛けたのは
酸素テントの上にある、お気に入りのワンちゃんの
小さなぬいぐるみだった。というオチ。笑
すごく感動的な場面のはずなんだけど
あ、あれ??
とみんなの涙よりも
笑いを誘ってしまう娘の生還だったのでした^ ^
娘はその直後はまだ、口から栄養が取れず
しばらくは鼻に管を通した経管接種でしたが、
一週間後に少しづつ口からの栄養に切り替わっていき
1ヶ月後に退院となりました。
とりあえず、すごく状況が変化するような
後遺症はありませんでしたが
相変わらず
自力で立つことはなく
言葉もなく
食事も排泄も何もかも
全介助
独特の動きは以前の娘のままです。
でも、なんだか私には
違う娘に見えました。
娘がより可愛らしくなって、
ここに戻ってきたように感じていたのです。
この4日間
死というものをすぐそばに感じ
私はやっと、
この子の「生」に気づかされました
何との比較ではなく
この子がこの子であること
できる、できない、持ってる持ってない
劣ってる、優ってる。
小さい 大きい
そんな誰かが決めた基準に翻弄されているうちに
この子の今を見失っていたことを思い起こし
もう、そんなのどうでもいい。
それより、今、娘がどうあるか
今の娘を感じ、受け止め、抱きしめたい。
心からそう思えたのです。
だって
何がどうであろうと
ただただ、生きている命なのだから・・・。
そう思えてから
私自身の、囚われとか鎧とか
世間的に生きる私とか
そういうことが、
バラバラと剥がれていくのを感じていました。
娘が何の基準にも当てはまらず
普通という枠から外れて
娘でい続けること
それは、私に
「囚われたものを手放して
本当の自分を生きるんだよ」
ということを伝える
ためなんじゃないかな。と
この時はっきり思えたのです。
そして、こんな目にあっても生き還るのは
まだまだ真の自分で生きるということを
伝え続けたいという
娘の魂の望みなのではないかなと、そう受け取りました
そういうことに気づかされ
冒頭の在り方が
私の中で芽生えていたのです
「命であること自体が愛おしい」
「人の命であることに普通も障害もない」
「この子がこの子であればいい」
そう気づいて、私は本来の自分を
取り戻していきました
それから
娘への受容が加速したように思っています
誰でも生きてる今というのは
奇跡なのだと身体で感じきり、
死のなかで、偶然生かされているのだ。
ということを体得したこの出来事
これを機に
私の人生は
今を感じ感謝する生き方に大きく変化し
自分の根元、真我と繋がる感覚を
知ることになりました。
元々の自分に還り
自由な心で生きていく決意ができたのです
娘が体を張って
示し伝えてくれたのですね。
もう何も恐れることはありません
もう、社会的な壁や
世の中の規範に怯むこともありません
私は心に忠実に生きることにしました
そうして
ありのままの自分を受け容れると
娘のこともありのままを受け容れられて
とっても可愛く、愛おしくなったのです
この出来事を経て
私と娘の新たな人生の章が幕を開けたのでした
娘5歳、私30歳からのリスタート!!
とっても清々しくありました。
(続く)