【第25話】5歳で病名が判明。でも、もう病名は重要じゃなかった
(前回のお話は→こちら)
娘の命が消えかけた出来事を経て
私の意識が随分と変わったことを伝えてきました。
何十年経った今でも
この出来事が大きな意識の転機だったと
はっきりと思えます。
それからしばらくの入院を経て
娘が再び幼児園に通えるようになったのは
そろそろ年中の学年終了の頃でした。
そして
その頃、ずっと判らずにいた
娘の病名がやっと判明。
でも、もうその頃の私には
娘の病名など、どうでもよくなっていました
娘が誕生した当初
おそらく、何番目かの染色体異常であろう
と言われながら
何度検査をしてもなかなかはっきりと
どの箇所の染色体異常なのかが見つからず
だんだんと周囲の子の発達とかけ離れていくのに
その「説明」がつかないことに
苛立ちや恐れを感じ、苦しい日々を送ったのだけど
でも、それから娘と向き合って、
いろいろな出来事を体験し
とどめには
命が消えそうな出来事からの気づきがあり
もはや私にとって
娘の病名などは重要ではなくなっていたのです。
なぜなら
それらの体験により
その病名の娘ではなく
娘が娘であればいい。という
ゆるぎのない気づきに
たどり着いてしまったから・・・。
そんな境地に至った頃、
5歳になっていた娘の病名が判明したのでした
病名は
4Pマイナス症候群
4番目染色体の短腕欠損で難病指定になっている疾患です
娘の誕生からずっと通っていた
横浜のこども医療センターが持つ(当時)
検査方法では、娘の欠損部分が見つからなくて
(同じ4Pマイナス症候群でも、人によって
欠損箇所が違い、見つからない場合があるのだとの説明)
慈恵医大病院への紹介を受けて
そこで検査をすることになったのです
当時、慈恵医大病院は
FISH法という検査情報システムを持ち
それであれば判るだろうということで紹介され
その通り
慈恵医大病院での検査で病名がつきました。
が、前述した通り
その頃の私は、
もう病名などに全く驚くことも怯むこともありません
そっか。といった感じ
ただ、聞いてくる人や、
何かの書類を提出するときの手続きなどが
病名が判りスムーズになったな。くらいのものでした
その病名の娘がどのような状況かというのは
過去記事を参照していただくとして
(娘の状況、病名、発達に関しては、こちらで説明しています➡️娘のこと)
私がここで思った確かなことは
この子が生きているという事実において
最も重要なのは病名などではない。ということ。
病名ってなんだろう?と時々自問しました。
社会常識との相違を
説明しやすくするためのものではある
あるいは
社会の基準から大きく外れたことからの
納得や、慰めなどのための
大義名分や、帰属先を得るものだったり・・。
というのもあるかもしれないけれど。
けれど
娘は4pマイナス症候群の娘を生きているのではなくて
ただ娘を生きてるだけなのです
もちろん
その病名ゆえの色々なケアが伴うことはあります。
が、・・・。
社会の基準から身体機能や知的な発達が
かけ離れているからと言って
それが『病気』なのかとずっと疑問に思ってきたし、
今もそう思います。
”健常”が前提で成り立つ社会において
適合しないことが、果たして全部「病気」なのだろうか?と。
そうじゃなくて
色々な姿形や、ありようがあっていいんじゃないの?・・・。
病名は肌の色の違いとか
人種の違いくらいな捉え方でいいのかも・・・。
ラベリングとかカテゴライズとか
そんなのどうでもいいんじゃないか・・・。
と、この頃にすでに感じていました。
だいたい
同じ病名だって
発達にしろ、障害の出方にしろ
一人一人全然違うのだから・・・。
そう、ちょっと余談ですが
(この後の出来事はここのストーリーで順次書いていきますが・・。)
私は、この娘の大きな出来事を機に離婚をし
それから10年シングルマザーで娘を育て
その後娘をそのまま受け容れてくれた
夫と出会い再婚するも
そんな幸せも束の間
再婚から10年で夫を癌で亡くすという
ちょっと波乱の人生を歩んできたのだけど
その夫の癌闘病の時に
夫には癌患者ということに
自分のアイデンティティを奪われないように
癌患者のあなたではなく
あなたはあなたを生きて、そこにたまたま
癌という病気があるだけのこと
そういうつもりで生きてほしい。
みたいな事を話しました。
その時、夫の病や夫の立ち方に
冷静に向き合えたのも
娘との
それまでの体験があったからこそなのですよね
病名がつくと
その病名の自分を生きてしまいがち
自分を病名に差し出すことに
なってしまう気がしたのです
そうではなくて
いかなる場合でも
元々私たちは
ただ命であって、意識。
元々持って生まれた本質を生きるというのが、
命に対しての使命なのかな。
と、娘や夫と向き合い思いました。
・・・・話がそれましたが、
結局何が言いたいかというと
誰もが
病名や年齢、大義名分、貼られたラベル。
または社会規範、そういう事に自分を預け生きるな!
本当の自分を生よ!ということ。
それはどんな重度と言われる障害者も
根本は一緒なんじゃないかなと
思ったわけです
辛い状況にあるとそう思えず
病名に翻弄されちゃうのだろうけど・・。
私、こんな事に気づいたの、
30歳になったばかりの頃。
なかなか、
タマシイレベル高めだと思いませんか?(笑)
振り返ると
それからの30代は
心に正直に
結構熱く娘と生きられたような気がしています
ここから、
学校選択の際
一人でインクルーシブ教育なんていう事にも挑んで行きました
(続く)